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エルスワース (メイン州) : ミニ英和和英辞書
エルスワース (メイン州)[す, しゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

エルスワース (メイン州) : ウィキペディア日本語版
エルスワース (メイン州)[す, しゅう]

エルスワースエルズワース、)は、アメリカ合衆国メイン州南東部のハンコック郡に位置する市であり、同郡の郡庁所在地である。2010年国勢調査では人口7,741 人だった。2000年から2010年の人口成長率は20%近くあり、州内では最も高い成長速度の都市となっていた。歴史的な建物やその他見どころもあり、人気のある観光地となっている。
== 歴史 ==
パサマクォディ族インディアンの歴史に拠れば、エルスワースのある地域にはパサマクォディ族とペノブスコット族インディアンが住んでいた。「両部族はアルゴンキン語族として密接だったが、人類学者は一般にパサマクォディ族を言語的にマリシート族と結び付け、ペノブスコット族はアベナキ族と結び付けている。」
ジョージ・J・バーニーが1886年にボストンで出版した『メイン州の地名辞典』の「ハンコック郡」の部では次の様に書かれている。
1613年、フランスがマウントデザート島のサムズサウンドで植民地を設立した可能性がある。マダム・ド・ゲルシェビルの庇護下にエルスワース地域と現在のユニオン川流域となっている場所を探検した。バーニーは、エルスワースに近い所にある種のフランス人開拓地があったと考えている。例えばトレントン、オークポイント、ニューベリーネック、サリーなどである。
17世紀を通じ、さらに18世紀に入ってもエルスワースの地域はイングランドとフランスの間で所有権を巡って争われた。イングランド人からフレンチ・インディアン戦争と呼ばれる間歇的な戦争にも発展した。インディアンはローマ・カトリックに改宗した者もおり、フランスと同盟してイギリスと戦ったが、それも1759年にケベック市が陥落するまでだった。イギリス、フランス、スペインポルトガルが調印した1763年のパリ条約以後、エルスワースはマサチューセッツ湾直轄植民地の一部となった。
エルスワースの近代史は1763年頃にユニオン川地域の開拓地に、現在の南メインとニューハンプシャー州から起業家ベンジャミン・ミリケンとベンジャミン・ジョイが率いるイングランド人の一隊が入ったことで始まった。彼らは地域の木材と水力を生かすためにダムと製材所を建設した。マサチューセッツ植民地がハンコック郡地域への入植を奨励するために提供した土地払下げに応募した。歴史家のアルバート・H・デイビスは、1927年にルイストンで出版した著作『エルスワースの歴史』の中で、この初期遠征と現在のウォーター通り北端の点として知られるものに言及し、ユニオン川を渡す橋のすぐ南を開拓者が建てた初期の原始的な建物があった場所としている。
ジョージ・J・バーニーはマサチューセッツ植民地による土地払下げの手続きを次のように説明している。

1773年、エルスワースで初のスクーナー船が建造された。この船は町の著名人ベンジャミン・ミリケンとベンジャミン・ジョイの娘たちにちなんでスーザンとアビゲイルと名付けられた。この船は毎年西インド諸島に航海するときに松材の屋根板とオーク材の樽板を運んだ。20世紀に入る頃に様々な大きさの多くのスクーナーが、ユニオン川沿いにあるエルスワースの造船所で建造された。
アルバート・H・デイビスは、18世紀の後半にエルスワースはユニオン川開拓地と呼ばれ、東はサリー、南はトレントンの開拓地に接していた。後にプランテーション第7号に編成され、ボードインおよびニューボードインと呼ばれた。1798年町の住民がサムナーという名前で法人化することを請願した。しかしその名前は既に現在のオックスフォード郡の開拓地に使われていたので、1800年、マサチューセッツ植民地議会によりエルスワースという名前で法人化された。この名前は1787年の憲法制定会議コネチカット州の代議員となり、当時は新しいアメリカ合衆国のために憲法策定を行っていたオリバー・エルスワースにちなむものであり、エルスワースは後にアメリカ合衆国最高裁判所主席判事になった者であり、最初に「アメリカ合衆国」という国名を提案した者と考えられている。
デイビスは、1770年代後半にユニオン川開拓地に対するイギリス軍の襲撃があり、土地の牛を徴発しようとしたものだった。しかし、アメリカ独立戦争の間にエルスワースの地域で記録に残される戦闘は無かった。
1838年、エルスワースはそれまでのキャスタインに代わってハンコック郡の郡庁所在地となった。1838年に建てられた郡の建物は今も残っており、ユニオン川の西岸、ブリッジヒルにある。
1859年、町の人口は4,009人であり、産業としては9つの製材所、2つの製粉所、1つの革なめし場、1つの梳綿機、1つの製陶所、8つのレンガ工場、13の造船所、5つのバケツ製作所、2つの刃物工場、1つの馬車製作所、8つの箱製作所があった。
歴史家のアルバート・デイビスに拠れば、1860年から1865年、エルスワースから南北戦争に653人の兵士を送り出した。当時地域の有権者として847人の男性しかいないときのことだった。軍事訓練がユニオン川の西岸、ブリッジヒルの郡建物の前で行われ、現在は南北戦争記念碑が置かれている。
1869年、エルスワースはメイン州議会により市として法人化された。最初の市役所はハンコック・ホールであり、メインストリートとスクール通りの角に立っていた。この建物は1933年エルスワース大火によって破壊された。
1888年、エルスワース地域に電気が通った。
1896年に議論のあった選挙によって、エルスワースで2人の警官を指名する結果になり、その互いが相手を逮捕すると脅した。
1907年、ベンジャミン・ミリケン・ユニオン川ダムの1つがあった場所で、エルスワース水力発電ダムの建設が始まった。このダムで、市の直ぐ北に現在のレナード湖が造られた。
20世紀にエルスワースで最初の災害は1923年の大洪水だった。春の増水がダムを越え、金属製のユニオン川橋を流し、ディリゴ劇場、鋳造所、多くの桟橋と倉庫など川沿いの多くの建造物も流した。この災害でエルスワースの輸送中心としての優位性を終わらせることになった。現在あるコンクリート製橋は1924年に付け替えられたものである。
1933年エルスワース大火が、ユニオン川の東岸、エルスワース中心街商業地区の大半を破壊した。その後の建物はレンガで、主にアール・デコ調で建設された。特徴あるエルスワース市役所はこの時代のものである。事業地区の外にある古い家屋の多くはこの大火を免れたものである。
1960年代と1970年代、ハイ通りのエルスワース事業地区が発展した。この通りはバーハーバーからアーカディア国立公園を直接繋ぐルートである。現在はハンコック郡で最大のショッピング地区になっている。幾つかのショッピングセンターと大型店があり、エルスワースとトレントンとの市境まで伸びている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エルスワース (メイン州)」の詳細全文を読む




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